らともふの映画レビュー集積所

らと・もふが映画を観て感じたことを気が向いたときに載せる場所です。

「美少女戦士セーラームーン」、クライマックスの不気味さ

 あり得ないくらい放置してたブログを久々に少し動かしてみたくなったので、ちょっと思ったことをメモ書き程度に書こうかな~と思います。お付き合いください。

 久々の投稿を謳った矢先のことで申し訳ないんですが、今回は全く映画関係ありません。ブログの看板に偽りしかありませんね。表題の通りに、ふつーにテレビ放送されていた「美少女戦士セーラームーン」の特定エピソードで生じている不気味さについて書いていこうと思ってます。

セーラームーンのおはなし

 さて、皆さんもご存じの通り「美少女戦士セーラームーン」は1992年3月から5シリーズ、200 (+1)話という長期間に渡って放送され、当時の女児を中心に絶大な人気を誇った作品です。所謂「東映魔女っ子シリーズ」の系譜と「スーパー戦隊」の系譜とを混合させたような、魔法少女アニメの一つの結節点と呼んでも差し支えない位置を占める特異な作品であると指摘することも出来るでしょう。

 そのように基本的には子供を対象としたコミカルかつ快活な作劇が為されている本作なのですが、無印のクライマックスにあたる45話と46話においては、そのような明るい雰囲気が一転することとなります。まず45話はサブタイトルからして、「セーラー戦士死す!悲壮なる最終戦」で強烈で容赦がないです。どうですか、皆さん? 

 実際にこの話ではバシバシセーラー戦士達が刺客の手によって絶命していきますし、最終的にセーラームーンだけが生き残りラスボスと対峙する形になるので、絶望感は半端じゃありません。当然のことながら、絶望感に打ちひしがれた人々(女児)が多数いたようです。

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ホントに死んでます

 「正義の戦士たちが死んでしまう」この演出だけでも相当に薄気味の悪いもので、語り草になっているのも当たり前のことであるとは思うのですが、わたしとしては続く46話の方こそがより苛烈な不気味さを放っているように思われます。サブタイトルに「うさぎの想いは永遠に!新しき転生」とあることからも読み取れるように、セーラームーンがラスボスを無事に打ち倒し、しまいには仲間たちも皆転生して元の平穏な日常が取り戻されるというような形で、45話とは対照を為して希望が描かれています。しかしどうでしょうか、「転生した!元通り!万歳!」と諸手を挙げて喜びに浸ることができますか?どうにも私には難しいように思われます。むしろ底の抜けてしまった空恐ろしさを感じてしまいます。

 どうして絶望的な45話のみならず46話についても不気味さを感じざるを得ないのか?というより、なぜむしろ46話の方が不気味なのか?その二つの不気味さの間には何かしらの差異があるのか?これらの疑問について、ある一つの文章を補助線、というより支柱として議論を進めたいと思います。

フロイトくんのおはなし

 それはジークムント・フロイトによる、その名も「不気味なもの」(原題: Das Unheimliche)という短めの論文です。短いながらも、後に有名な「超自我」として知られることとなる概念の原型や、去勢不安、オイディプス・コンプレックスといったフロイトフロイトたらしめる数々の思想が取り扱われており、読みやすく濃厚な掌編となっています。

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ふろいとくんかっこい~

 セーラームーンの話を進める前に、少し本書の議論のあらましをざっと概観してみようと思います。ここでは、「不気味さ」を「不安」というより大きな概念に包含されるものとして定義した上で、それがどんなやり方で、どんな核をもって生成されてくるのかということに分析の主眼が置かれています。分析のアプローチとして、フロイトは「不気味さ Das Unheimliche」という独語自体の精査と、事物や状況などの諸事例の追及という二つの道筋を立てて議論を進めていきます(が、私の議論には後者しか関連しないので前者は割愛します)。事例的なアプローチは、『砂男』や『悪魔の霊液』などの古典的創作物をしばしば引用しながら進められますが、最終的に彼は不気味なものを「慣れ親しんだものが抑圧を受けた後に回帰したもの」として定立します。

 少しことばが複雑に錯綜していて分かりにくいので、これを平易に言い換えると「ふだん触れているものが何かしらの変化を経ることで、隠された裏面をあらわにして迫ってくる」というような感じになるでしょうか。この「何かしらの変化」に当たるものは、「アニミズム」や「思考の万能」、「死」、「意図せざる反復」、「オイディプス・コンプレックス」などの様々の用語を尽くして説明されることとなります(今回は触れませんが)。

  先に見た通りに、フロイトは様々の古典的創作物を引き合いに出すことによりその論を組み立てているのですが、実はその有効性を無差別に認めているわけではありません。彼は、「実際に体験される不気味なもの(精神分析的)」と「想像的不気味なもの(美学的)」の二者を峻別しているのです。要するに、現実世界の不気味さと創作物上の不気味さは権利上その射程と効用が異なっていると述べているのです。ここで彼は明確に、「想像的不気味さは現実吟味を経る必要がない」と主張しており、それ故に、経験的に感じられる不気味さがそのまま創作物に対し水平にズラされても効果をもたらさないケースがしばしばあるということになるのです。

 また、不気味さを生み出すものの根源についても二つの類型が与えられています。それは、「克服されたものから生じるもの」と「抑圧されたコンプレックスから生じるもの」として分けられます。フロイトにとって抑圧という言葉は非常な重みをもつものであって、オイディプス・コンプレックスのような生得的で強力な精神不安を意味するものです。なので、不気味さに関しても、その本源性、強度の観点に立った時に「抑圧~ > 克服~」という関係性が成り立つこととなります。

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オイディプス・ザ・マザファッカー

セーラームーンの不気味なもの

 さて、存外「不気味なもの」の説明が存外に長くなってしまいましたが、話題をセーラームーンに戻すことにしましょう。まず、トラウマ回の典型例として語られている45話について。登場人物たちに劇的な死を唐突に与えるということは、典型的に物語の純粋な力によって不気味さを作り出すということに当たりますが、これはあらかじめ述べた所の「克服されたものから生じる不気味さ」になります。それは則ち、あくまで死に対する意識的な克服が前提とされている(現実吟味をする必要がない)創作物上の出来事でしかないのであり、その不気味さはわたしたちにとってそれ程致命的なものでもないのです。

 ここで、本題の46話における不気味さの検討に移ろうと思います。当該エピソードでの最も大きなイベントと言えば、やはり「転生」ということになると思いますが、「不気味なもの」でも似たような指摘がされている箇所があります。曰く、「仮死状態や死者の再生がたいへん不気味なものであるにもかかわらず、聖書の中での奇跡や白雪姫は不気味なものとしてあらわれない(要約)」とのことです。確かにわたしたち(少なくともわたし)には白雪姫の復活が不安感を煽るものとして感じられたことはありません。この言にしたがえば、同じく創作物であるセーラームーンの復活もまた幸福な幕引きとして受け取られるべきであるのに、そういうことにはなっていません。

 ですから、46話の転生劇は「抑圧されたコンプレックス」の方に片足を突っ込んでいるものと考えてしまって良いでしょう。フロイト自身もまた、創作物がありふれた現実的な舞台を礎とするのならば、現実吟味の対象となり得ると述べています。セーラームーンという作品はどうでしょうか?44話に至るまでの物語を思い出してみますと、それぞれのキャラクターの人格的な描写はさることながら、人々の服装やしゃべり方、街並み(というかモデルを麻布に置いている)、季節感……といった様々な要素を駆使することによって「現実み」が高度に作り出されているのであり、現実吟味の対象として成立し得るものであると思われます。

 このように構築された現実感のコンテクスト(「枠」)を前提とすることにより、わたしたちは、感情移入という形で彼女らの主観に自らの主観を重ね合わせることが可能となるのです。主観が重ね合わされた状態で、死→転生のプロセスを経ると考えると、これほど恐ろしいことはないでしょう。例えば、分析哲学の領域でしばしば取り扱われる「人格の同一性」の問題に照らし合わせてみた時に、身体も記憶も一度は敵の手によって消滅させられ、連続性を喪失した自らの人格的主体が過去とは変わらない同一のものとして存続していると、自信をもって断言することが出来るでしょうか?わたしには到底出来ませんし、非常に不安感を煽られてしまいます。

 要するに、46話ではセーラームーン追体験的に人格の分裂的危機を経験させられていると言えるのです。そして、まさしくフロイトの「抑圧されたコンプレックス」とは分裂症的な自我の混乱を伴うものとして想定されているのです(そもそも、「慣れ親しんだものが抑圧を受けた後に回帰したもの」はニーチェ永遠回帰を意識した発言であるので、不気味なものは必然的に自我への混乱を生むのですが)。

 以上見てきたように、46話が45話にも増して不気味さを放っているのは、セーラームーンのコンテクストに自らを浸し、無意識的のうちに登場人物と主観を重ね合わせることで、転生に伴う人格の分裂を経験してしまうことに起因していると説明することが出来るでしょう。ともあれ、このような不気味さが無意識的なもので意図せざるものであったとしても、それはここに至るまでのセーラームーンという作品全体のクオリティの高さが生み出したコンテクストに由来するものであるということに疑いを差し挟むことは出来ないでしょう。

 2021年の映画が公開されたら是非見に行きたいですね~(レビューもする…かも)

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ここの幽霊も不気味だったけど

                            (作成者:もふ)